3月11日。東日本大震災からもうすぐ2年

東日本大震災 若林区
後日で、東日本大震災から2年がたちますね。

今でも原発は収束しない様子だし、ネットや雑誌を見ていても『復興』の文字をまだ頻繁に見かけます。

それでもあの当時の記憶は少しずつ薄れていて、というより、
あまりにも恐ろしい体験だったので、記憶の片隅にしまいたくなる。

というのが、自分の中では本音なのかもしれない。なぁと、
ちょうど2年がたとうとしている今、振り返ってみて感じています。

分は当時、いてもたってもいられなくて震災からちょうど1ヶ月後の宮城、石巻へ行きました。

そこで見て体験したことを記した文章があるので、ちょうど今、それをまたシェアすることで

何かを感じて頂ければなと思います。

そして撮ってきた写真は、当時載せることができないままでいたのだけど、今回は写真付きでシェアしようと思います。

日、羽田から飛行機に乗って仙台へ行きました。
仙台が近づくにつれて飛行機の窓から最初に見たのは、海に浮かんでいた漂流物。
そして着陸のとき、沿岸部が見えた。
テレビでも何度となく流されていたあの景色。
それでも実際に見る景色は目を疑うほどの、想像を絶する景色だった。
着して、仙台空港でプレハブの仮設トイレを作って
ほんとに小さなフロアだけで営業をしていたのが、あまりにも痛々しかった。

東日本大震災 仙台空港

それでもANAやJALが大きな「頑張ろう、東北」の文字を中心に
たくさんの人たちの励ましの手書きコメントが書かれた張り紙をしていて、
それが希望の「シンボル」になっていた。

東日本大震災。仙台空港

港を出ると、鉄道の駅が閉まっていた。
よく見ると階段のガラスが割れていて、エスカレーターには乾いた泥が溜まっていた。

東日本大震災 仙台空港駅

そんな一つ一つのことに呆気に取られていたら、
仙台行きまでのバスがいつの間にか出発していなくなっていた。

東日本大震災 仙台空港

ぎのバスまで随分と時間があったので、
タクシーの運転手さんに話しかけて、人の良さそうな人だったので
レンタカー店まで乗ることにした。
運転手さんは、この辺まで津波が来て残った塩分のせいで
米がしばらく作れないという話とか、信号機の代わりに交通誘導してるのは
東京のおまわりさんだよとか、そんな話をいろいろとしてくれた。
途中で咲いていた満開の桜が、話題を別のことにふってくれた。

東日本大震災 仙台の桜

偶然、娘さんが埼玉に住んでるとか、昔は良く鴻巣まで行ったんだよ。
なんて話もしてくれて、共通の話題で少し盛り上がった。
降りるとき、料金の端数を割り引いてくれた。
「ほんの気持ち」と言って。
軽く泣きたい気持ちと、とても申し訳ない気持ちになった。
ンタカーに乗って、最初に向かったのは塩釜港。
仙台の中心地の街並みはほとんどが何も問題なさそうに見えていたのだけど、
港へ向かう途中で、家の塀が壊れていたり、大量の瓦礫が積まれていたり、
信号機が故障していたり、津波がきた地域であることがすぐに理解できる。
津波がきた場所とそうでない場所。被害の差がすごくはっきりとしていた。
港へ近づくと、道路に漁船が横たわっていた。
それでもこの一ヶ月の間に、車が通れる様に
相当な瓦礫が撤去されたはずだ。

東日本大震災 塩釜港

港では大きな漁船が数隻、岸に打ちつけられていて
おそらく自分の船だろう、その修理をしている漁師さんが
椅子に座っていて何もしてない姿を見て、いたたまれない気持ちになった。

東日本大震災 塩釜港

東日本大震災 塩釜港

に石巻へとさらに北へ車を走らせた。
途中、日本三景の一つ松島も通ったけど、おそらくメインの通りだろう、
そこに並ぶお店は軒並み壊されて休業していた。
石巻は本当に目を覆いたくなるような状況だった。
津波のニュースで頻繁に聞かされた「壊滅的な被害」。
その意味を知らされた。

東日本大震災 若林区
(※ これは若林区で撮影した写真。)

そして街並みに溢れる磯の香りとヘドロが混じった独特のにおい。
そのにおいの中で見た石巻の景色は一生忘れない。

東日本大震災 若林区
(※ これは若林区で撮影した写真。)

字通り、自分が打ちひしがれて歩いていると、
ショベルカーを使って会社の瓦礫の撤去をしてる景色が
一つ二つと見つかった。
民家からヘドロを出すボランティアの人たちもいた。
その二つの景色をみたとき、もうこの街の人たちは復興へ向けて全力で
動き始めてるんだ。と、感じた。
と同時に、自分は何のためにここまで来たのか。とも。

東日本大震災 若林区
(※ これは若林区で撮影した写真。)

そう、何か少しでも力になれる、手伝えることがあればやりたい。
と思ってきたんだ。
び入りでも受け入れてくれる施設をネットで見つけて
ショベルカーが道路を塞いだりしてひどく渋滞する中、
避難所へ向かった。
避難所ではすでにたくさんのボランティアの人たちが、大学の敷地に
たくさんのテントを張って滞在していた。
受付で登録用紙に記入すると、ボランティア保険というものに自動で加入する
仕組みになっていた。
明日の午前のフライトで東京に戻らなきゃいけない旨を伝えて、
夜通しの作業でもあればとお願いした。
そんな作業はなくて、だいたいがヘドロや瓦礫の撤去作業をチームに分かれて
派遣場所で行う作業で、午後4時には戻ってくる。ということだった。
違いなのかなぁ。なんて正直ちょっと腰が引けたとき、
受付用紙が風に飛ばされて、
「じゃあまずは拾うの手伝ってください。仕事ができましたね(笑」
なんて笑いながら言われた。
そのあと、どのうを作る仕事がある。
と言われて、倉庫に連れていってもらい、
一生懸命どのうを作ってた 笑)
そんな小さな小さな役割だったけど、東京で毎週末モヤモヤして過ごしているよりは
自分にとっては100倍も良かった。
ランティアを終えて、仙台駅へ帰るとき
行きに松島を通ったときに見た、津波の被害で軒並みお店が閉まっていて
そんな中、一軒だけ綺麗な店構えで営業していた牛タン料理屋へ寄った。
食べ終わって会計するとき、美味しかったことを伝えて
なぜこのお店だけ営業出来てるのか、しかも店内がすごく綺麗な状況で。
と聞いてみた。
そしたら、店長が一刻も早く松島の通りに一つでも灯りを灯したい。という
想いで、急ピッチで復旧をしたのだ。と言われた。
だからまだ天井はあんなです。と全く気づいてなかった天井の様子を
指差して笑っていた。
そんな現地の人と話して、すごく頼もしいなと思うと同時に、
すごく元気と希望をもらった。
分の地元をそんな風に思い、困難でもそれを実行して、語る人がいる。
それほど素敵なことはないと、思った。
お店を出たあと目の前に見える公園で月明かりの中、
薄っすらと蒼く見える松島は、綺麗だった。


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